「教育の組織化」は必要か?

さて、前回の「組織の限界」について、教育を中心に考えてみたいと思います。

 

私は大学教員ですが、そもそも教育も組織化されなければならないのかどうか、疑問を感じています。確かに、「学位」を出すための教育機関を作ろうと思うと、それはもう大変で、設置審(大学設置・学校法人審議会)の審査では、まぁそこまでいうか、というぐらいの細かい点まで修正が求められます。

 

(この点、いわゆるモリカケ問題の「加計学園」ですが、設置審で合格しているということは、相当厳しい審査をクリアーしているのですよ。)

 

しかし、そうした制度の外に出れば、私塾を開設するのも何の規制もなく、それこそYoutubeでは、いろんな専門家が知見を提供しています。どんなに細分化された知識でも、今の時代は容易に得ることが可能に。

 

(最近Youtubeで「恋愛・婚活スタイリスト」と名乗る方を見つけて、こういったものもあるのか!と思ったところです。なお、この方の動画、結構面白いです。)

 

もっとも、大規模な実験装置が必要な理系の一部の研究分野では大学は必要かもしれませんが、文系だと、特段、大学という存在の意義を感じないのです。

 

私自身も研究者としてさまざまな著作を出してきましたが、特に近年は、公的資料(例えば外国の議会の議事録等)のオンライン公開がどんどん進んできて、例えば「外国の図書館で資料収集」ということすら不要になってきました。つまりそのための旅費が不要なのです。

 

すなわち、研究費を得るために大学に所属して、そのうえで申請のための超絶長い(くだならい)作文を書いて、分かっていない審査員に土下座してお金をもらう、という行為が不要なわけです。(私の所属大学では、この研究費を取るという行為がかなり重視されていまして、そのためのさまざまな「支援」があります(苦笑))

 

そうして研究成果をもとに教育をするのですが、これも、それこそ一方的な講義だと、Youtubeで配信すれば十分で、これは昔から予備校がやっていることです(「今でしょ!」の林先生等)。となると物理的に教室に学生を集める必要があるのか……

 

しかも、前期後期と別れて、半期15回の授業をやれ!と監督官庁からのお達しがありますが、なぜそもそも15回なのか、これもわからなくなってきました。というより、連続して〇回やる必要もある内容もあるでしょうし、単発だけで済む内容もあるでしょう。これを一律に「15回」というところが、如何にも全体主義的です。時間も90分である必要もあるのか……

 

また、学部ごとに必修科目や選択科目が決められており、嫌な授業でも履修せざるを得ません。自分の好きな授業だけ取ればいいのでは?

 

結局何が言いたいのかというと、専門知識を得るための装置としての大学が旧態依然としており、大学でなくとも、自由に自分の求める知識だけをピンポイントで得ることのできるインフラ(Youtube等)が発達してきた今となっては、これも「教育の組織化」の限界が明らかになっていると感じるのです。

 

ではなぜこうなっていたかというと、今までは「組織」でソツなく仕事ができるジェネラリストが必要だったために、教育をパッケージ化して、ある程度の「均一生産」をしてきたのでしょう。ところが、これからは、組織に属さない専門知識・技術に特化したスペシャリストこそが必要なわけで、その存在感がますます高まっている中だからこそ、「組織化された教育」の限界も顕著になってきたのではないかと思います。

 

私は教育者でもあると自任していますので、キックスタート!でも「自由な教育の場」を作っていきたいとも考えているところです。